ブックレビュー『コミュニティ・アーカイブをつくろう! せんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」奮闘記』
佐藤和久/甲斐賢治/北野央 著
晶文社、2018年
2026.3.11 Wed
社会は完成しない ─未完の社会を記録する
東日本大震災は、「記録する」とは誰の行為なのか? という問いを私たちに突きつけた。災害や社会的出来事の記録は、これまで専門家や報道機関の役割として理解されてきた。しかし、本書で紹介される「3がつ11にちをわすれないためにセンター(通称:わすれン!)」の実践は、その前提を静かに揺さぶる。震災の経験を記録する主体は、専門家だけではない。日常のなかで出来事に触れた市民一人ひとりの「小さな当事者性」が、記録という行為を引き受けていく。本書は、そのような市民主体の営みを「コミュニティ・アーカイブ」という視点から捉え直す試みである。(わすれン!の活動については、甲斐賢治氏の寄稿を参照のこと)
本書でまず興味深く感じたのは、わすれン!が自らの活動をプロジェクトやアーカイブではなく、「プラットフォーム」と定義している点だ。通常、プロジェクトには明確な目標や設計図がある。しかし震災のような出来事のなかでは、最初から活動の目的を定めること自体が難しい。そこで必要になるのは、活動の舞台となる場をまず開き、その後の展開に応じて目的を更新していく柔軟な仕組みである。せんだいメディアテークのコンセプトにもあるように、ここでは提供する側とされる側の関係が固定されることはない。記録する人とそれを受け取る人の立場は絶えず反転し、活動全体は常に「アンダーコンストラクション(工事中)」の状態に置かれる。この未完成性こそが、コミュニティ・アーカイブの特徴である。
こうした発想は、記録やメディアに対する一般的な理解とも少し異なるかもしれない。著者である甲斐は、現在の映画館や美術館が文化装置として洗練される一方で、そこに関わる人々の振る舞いをあらかじめ規定してしまっているのではないかと指摘する。かつての映画上映のように、観客が語り合いながら映像を共有する場は、制度化の過程で失われつつある。だが、古いフィルムを地域の公民館で上映すると、観客が思い思いに語り出すことがある。そこでは映像は単なる情報媒体ではなく、人が感じ、議論し、考えるための場として機能する。コミュニティ・アーカイブもまた、そのような関係の場を開くメディアなのである。
本書で繰り返し語られるのは、「まとまらなさ」を引き受ける姿勢である。震災の経験は人それぞれ異なり、単一の物語に収斂することはない。むしろ重要なのは、それぞれのまとまりのなさが、そのまま公に共有されることである。本書では鶴見俊輔の言葉を引きながら、混沌のなかからこそ次の思考の芽が自発的に生まれてくると語られる。また、わすれン!と両輪のように展開された「てつがくカフェ」の活動にも触れながら、対話とは理解や合意を目標とするものではないという考えが示される。鷲田清一(せんだいメディアテーク前館長)の言葉を手がかりに、語り合うことで人は他者と同じ考えに到達するのではなく、むしろ互いの違いをより細やかに知ることになる。理解しあえないことを前提にすることで、人が共にいられる場所はむしろ開かれていくのである。(てつがくカフェの活動については、甲斐賢治氏の寄稿を参照のこと)
この姿勢は、「つたなさ」という言葉にも表れている。本書では、表現の不完全さが解釈の「のりしろ」として重要な役割を持つとされる。完成度の高い表現は、しばしば解釈の余地を閉じてしまう。しかし、つたない語りには、読む者が入り込む余白が残されている。その余白こそが、記録を他者と共有するための接点になる。コミュニティ・アーカイブとは、完成した記録を保存する制度というより、むしろ未来の解釈のための余白を残す実践なのである。
この点で思い起こされるのが、本書でも紹介されるイヴァン・イリイチが提起した「コンヴィヴィアリティ(共生の技術)」という概念だ。イリイチは、制度や専門家に過度に依存する社会が、人びとの主体的な関係を奪ってしまう危険を指摘した。人びとが自らの手で道具や制度を使いこなしながら、互いに関係を築いていく社会。それがコンヴィヴィアルな社会である。コミュニティ・アーカイブの実践もまた、専門家だけが記録を担うのではなく、市民の小さな当事者性によって支えられる点で、この思想と響き合っている。
本書の終盤では、「未来のノスタルジア」という印象的な言葉が提示される。コミュニティ・アーカイブとは、現在を記録し、それを未来へと投げる活動であるという。ここでいうノスタルジアは、単なる懐古趣味ではない。未来の誰かが、自分の身体や暮らす土地の過去をたどりながら、そこに潜んでいた多様な物語に触れること。そのとき過去は、異なる時間を想像するための資源となる。震災の記憶はいまだ完成した出来事ではない。復興の過程が続く限り、それは更新され続ける未完の記録である。
この視点は、医療の現場にもどこか通じる。医療は身体を記録し、診断し、治療へと導く営みである。しかしそこに現れる〈いのち〉の経験は、数値や診断名だけではとらえきれない。患者の語りや生活の文脈は、必ずしも医学的記録だけでは十分にとらえきれない側面もある。震災の記録、市民の語り、対話のなかに残される差異、そして混沌のなかに芽生える思考。異なる経験や語りがただちに整理されず、ある種の混沌を保ったまま共有されること。そこから、他者とともに生きるための「寛容」の感覚が育まれていくのかもしれない。コミュニティ・アーカイブとは、未完の社会を未来へ手渡すための試みなのである。
Text アイハラケンジ
Photo 三浦晴子