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〔いのち)の可能性をみつめる

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池上恵一《The Potter’s Hand》2023年 撮影:Tomas Svab

《The Potter’s Hand》池上恵一

美術家

LIFE GALLERY は、1人のアーティストに焦点をあて、その作品をトップページのカバーアートとして紹介するページです。今回は、2026年6月からの特集テーマ「手」と連動し、美術家・池上恵一さんの作品を紹介します。

陶芸やドローイングなどを通して「手」をモチーフにした作品を発表し続ける美術家・池上恵一さん。池上さんは、手を「自己と他者をつなぐ窓」のような存在だといいます。手とは何か。触れるとは何か。そして、なぜ人は他者に触れようとするのか。「手」をめぐる問いを通して、芸術と身体、そして人との関わりについて話を伺いました。

池上さんは、身体のなかでも、なぜ「手」に注目してきたのでしょうか。

手は、生きていることが直接的に現れている場所でもあるし、誰かに触れることができる箇所でもあります。自己と他者というふうに考えたときに、その境界にあって、内側と外側をつなぐ窓みたいな存在だと思っています。光島貴之さんという全盲の美術家と、この数年セッションを続けているのですが、そのなかで、握手についてたくさん話をしました。握手をすると、どこまでが自分の圧で、どこからが相手の圧なのか、わからなくなるんですよ。手を通して、自分の身体と相手の身体が接触しているんですけれども、伝わっている圧力は、混じり合っている。押しているのか、押されているのか。その境界が曖昧になる。

以前、家族を看取るなかで、身体をさすったり揉んだりしていると、生命力が弱まるにつれて、身体の内圧のようなものが少しずつ低下していくのを感じたことがありました。生命というのは、中心から外側へ向かっている力なんじゃないかと思ったんです。でも、その力は、自分ひとりでは気づけない。外に向かっている力同士がぶつかり合ったときに、初めて「ああ、自分はいま外へ向かって生きているんだ」と感じられる。だから、手というのは宇宙の先端みたいな存在なんじゃないかと思っています。植物の根っこが土に張り巡らされているように、身体の中心から伸びた生命のベクトルが、外の世界に触れていく。その先端が手なんです。

「宇宙の先端」という表現が印象的ですね。

自分以外のものと接触することで、本当の意味で自分を感じることができる。そして、相手の存在にも気づくことができる。手というのは、自分と世界を知っていくための窓なんだと思っています。

人はなぜ触れるのだろう、とよく考えます。言葉で説明したり、目で見たりして、私たちは相手を理解しているように思っています。でも、手で触れるということは、それとは少し違うんです。話をして、「こういう人なんだろうな」と想像して接することはできます。でも、実際に触れるということは、そういう先入観よりも前にある。その人の存在そのものと接触することなんです。言葉よりも先にある対話、と言ってもいいのかもしれません。

「第51回現代美術 ─茨木2024展」(茨木市文化・子育て複合施設「おにクル」、2025年)でのワークショップ・展示より

池上さんは、作品制作以外にも、ワークショップなどの活動もされています。ワークショップの現場では、どのようなことが展開されているのでしょうか。

僕のワークショップでは、身体をほぐしたり、軽く叩いたりしながら、自分がいまどんなふうに感じているのかを確かめることを最初にやります。自分の感覚を少し敏感にしてから、相手の身体に触れていくんです。そうすると、見えてくるものがあります。それは、「自分と相手はまったく違う」ということです。

たとえば、「ツルツルしているね」と言葉にすると、同じ感覚を共有しているように思います。でも、本当は違うんです。僕が感じている「ツルツル」と、相手が感じている「ツルツル」は、おそらくまったく同じではない。僕たちは、言葉によって同じものを見ているような気になっているけれど、実際には、それぞれが違う身体を通して世界を感じています。そう考えると、僕のワークショップの目的は「わかり合うこと」ではないんですね。むしろ、その差異を際立たせることなんです。自分が感じていることと、自分以外の人が感じていることは、決して同じではない。そのことを、身体を通して実感する。

「KYOTO RECORDS」(ロームシアター京都、2026年)でのワークショップより 撮影:井上嘉和

Tシャツを使ったワークショップでは、「ここを押されると気持ちいい」「ここは硬い」といった感覚を、それぞれの身体の地図として記していきます。そして最後に、それを交換するんです。すると、「こんなところが凝っているんだ」「そこは自分なら触れてほしくない場所だ」と、自分とは異なる身体の感覚に出会うことになる。でも、それは「相手を理解した」ということではありません。むしろ、「自分とは違う存在なんだ」ということを認めることなんです。僕たちはつい、「相手を理解したい」と思います。でも、それは頭のなかでつくられた関係でしかないことも多い。好き嫌いや経験によって、相手との距離は簡単に変わってしまう。

けれども、身体を通して感じる差異はもっと根源的です。この疲れは、自分のものだ。この感覚は、自分にしかわからないものなんだ。そんなふうに、自分の身体の孤独のようなものを認めることによって、はじめて相手の孤独も認められるのではないかと思うんです。自分と相手は違う。でも、その違いを抱えたまま触れ合うことはできる。

触れることは、相手を自分と同じものにするためではなく、違う存在として出会い直すための行為なのかもしれません。当たり前すぎて見過ごしてしまうことを、もう一度、際立たせる。僕にとってワークショップは、そのための場なんです。

今回のGALLERYの扉絵、そして特集「手」のイメージビジュアルとして提供いただいた作品、《The Potter’s Hand》についてお聞かせください。

《The Potter’s Hand》は、人間国宝である陶芸家・清水卯一の手を想像して作った作品です。清水さんとは実際にお会いしたことはありませんが、年代ごとの作品を触らせてもらう機会がありました。作品に触れていると、その人の手の動きが伝わってくるような感覚があったんです。半乾きの釉薬に残された指の痕跡や、わずかな歪みや揺らぎをたどっていくと、「こういうふうに土に触れていたんだな」と感じることがある。もちろん本当にわかるわけではありません。でも、作品に残された痕跡を手でなぞることで、かつてそこにあった別の手の存在に出会うことはできる気がするんです。

池上恵一《The Potter’s Hand》2023年(左右とも)
人間国宝である陶芸家・清水卯一の手を想像して作られた作品 撮影:Tomas Svab

自分は、この作品を「つくった」という感覚があまりないんですよね。何かを再現しようとしていたわけではない。むしろ、彼の作った作品に触れたあとに残った感触を確かめるために粘土を触っていたら、結果として手のかたちになった。トレースに近いのかもしれません。

前述のように、家族を看取るなかで身体に触れ続けた経験や、ワークショップの実践を通して、自分は身体の凝りや緊張について考えるようになりました。一般的には凝りは悪いものと捉えられがちですが、僕にはそうは思えません。むしろ、その人が日々のストレスや環境に適応しながら生き抜こうとしてきた痕跡のように感じるんです。
身体は常に外界から影響を受けています。そのなかで生まれる緊張は、生命力が失われた状態というよりも、生命が自らを守り、生き抜こうとする働きの現れでもある。だから僕は凝りに接触すると同時に、その人がどのように生きてきたのかに触れようとしているのかもしれません。身体にも作品にも、その人が生きてきた時間が刻まれている。だから僕は作品をつくるというより、手に残された記憶をたどり直しているのかもしれません。

池上恵一《生命掌》2024年

モノクロームの画面の中から、ぼーっと浮かび上がる手のフォルムがとても印象的です。この絵を描いた池上さんご自身の手の痕跡もみえてくるようです。

禅の「却下照顧」という言葉があります。乱れた履物を見つけたら整える。それは礼儀というより、自分自身の状態を見つめ直す行為なんだと聞きました。作品をつくることも、それに近い気がするんです。素材と向き合い、自分の感覚を静めていく。
ドローイングで木炭を使うときも同じです。木炭紙を一度真っ黒に塗りつぶして、そこから少しずつ像を浮かび上がらせていく。その下準備の時間は、儀式のようでもあります。手と素材との境界をなくしていく。粘土なのか、自分の手なのか。木炭なのか、自分の神経なのか。その境界が曖昧になっていく感覚があるんです。
筆やペンで描くことには、どうしても違和感があります。指で押す。凹ませる。擦る。手の先が、そのまま素材になっていくような感覚。それが、僕にとって「つくる」ということなのだと思います。

最後に、池上さんにとって「手」とは何でしょうか。

手とは何か、と聞かれても、最後までひとつの答えにはならない気がしています。「こうです」と言いきってしまったら、そこで終わりなんですね。むしろ、手を通して他者に触れ、違いに出会い、作品に残された痕跡をたどるなかで、新しい問いが生まれ続ける。そのなかで、自分自身もまた生かされているんだと思うんです。

触れることは、相手を理解することではないのかもしれません。自分とは異なる存在がそこにいることを知り、そのわからなさを引き受けながら関わり続けること。ただ、その人がそこに生きていることに静かに寄り添うこと。

手は、芸術表現の根っこのようなものです。なぜ人は、太古の昔からものをつくってきたのか。脳が命令したからではなく、もしかすると、手そのものがつくらせてきたのではないか。そう思うことがあります。だから僕は、手をつくっているというより、手を通して、人がつくり続けてきたものの根っこに触れようとしているのかもしれません。

Text: アイハラケンジ

池上 恵一(いけがみ けいいち)

美術家。病弱だった幼少期、両親の食養法に救われた経験から、人間にとって生命とは何かを探求する。芸術活動のために身体技法や武術を長年実践するなかで身体の「凝り」に魅了され、人の身体に触れた手の記憶をもとに、指圧ドローイング、陶芸、彫塑、ワークショップによる作品を展開。近年は、身体を内側から押し広げる力と大気の圧との関係に生命の働きを見出し、「触れること」を通して身体と世界、自己と他者との関係を問い続けている。

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