
見えない水が、見えない未来をあたためる
鈴木杏奈(東北大学流体科学研究所 准教授)
2025.10.15 Wed
ゆらぐ未来の輪郭
大学時代、私はカンボジアを旅した。アンコールワットの近く、森のなかにひっそりとたたずむタプローム遺跡。その前に立ったとき、私は思わず息をのんだ。かつて人が築いた壮麗な石の寺院が、今では巨大な樹木の根に飲み込まれ、静かにその姿を変えていた。崩れかけた石の建物に大木の根が絡みつき、じわじわと侵食している。その光景は、ただの廃墟ではなかった。むしろ自然の時間が、確実に人の営みを包み込み、のみ込んでいく ─そんな「支配」にも似た美しくさえあるその風景は、どこか恐ろしくもあった。
未来とは、自然を制御することで拓くものなのだろうか? それとも自然に呑まれてしまうものなのか。あるいは、自然とともに変化しながら生きていく、そんな未来もあり得るのだろうか─。
旅の途中、もうひとつ忘れがたい出来事があった。水上の町で舟に揺られていると、タライに乗った痩せた子どもが近づいてきて、お金をせがんできた。「なぜこの子と私は、こんなにも違うのだろう?」
日本では、蛇口をひねれば水が出る。スイッチを押せば電気がつく。けれどその豊かさは、エネルギーも食料も、多くを他国からの輸入に依存して成り立っている。
私の暮らす日本は、「持続可能な社会」なのだろうか。自然と、そして世界と、もっと誠実につながり直す必要があるのではないか。そう自分に問いかけながら、私の中にひとつの思いが芽生えた。「日本がもっている資源と、もっとちゃんと向き合いたい」それが、自然や世界と、新しい関係を築く第一歩になるのではないか? そう考えた私は、地熱エネルギーの研究へと歩みはじめた。
地下を流れる、つながりのかたち
地熱エネルギーの主役は、「熱」ではなく、じつは「水」だ。地中深くにある熱は、それだけでは地表に届かない。けれども、熱水や蒸気として動く「水」は、そのぬくもりを地上に運ぶ。この見えない地下の水の流れこそが、私たちの暮らしと自然の奥深くをつなぐ媒介となっている。地下にある「熱」と「水」、そしてその水が流れる「通り道」(流路)。この3つがうまく“つながって”いなければ、地熱という資源は活かされない。
私は、この「つながりの構造」を探る研究をしている。見えない地下にある割れ目や流路を数理モデルで可視化し、形のつながりを考える「トポロジー」という理論で読み解いていく。
けれども、研究を重ねる中で気づかされたのは、科学ではとらえきれない、もうひとつの“つながり”の存在だった。それは、人と自然のあいだにある価値観や文化としての「つながり方」の多様さである。
温泉は、人のために湧いているわけではない。火山の熱と地下水の巡りが生んだ、地球の営みそのものだ。けれども、人はその存在に気づき、湯治や信仰、観光など、さまざまな関係を築いてきた。ある人は温泉を「神の恵み」としてそっと見守る。またある人は、まちづくりの資源として活かそうとする。そのどれもが、人と自然との大切な“つながり方”だ。
だから、技術的に正しいからといって、地熱開発がすぐに受け入れられるわけではない。合理性だけでは語りきれない世界が、確かにそこにある。
ぬくもりと、つながり直す未来
東北の温泉地を訪れると、かつての賑わいを失った町並みに出会う。シャッターが閉まった商店街、廃業した宿。最初は、「終わってしまった場所」に見えた。もう熱も、価値も、すべて失われてしまったのではないかと。
けれども、ふと、あのタプローム遺跡の記憶がよみがえった。あの場所もまた、崩れながら、自然と交わり、別の命を宿していた。だとすれば、温泉地もまた「湧き直す」ことができるのではないか。たとえ誰もいなくなっても、地下では水が流れ、熱が脈打ち、ぬくもりは今も静かに湧き続けている。人間がその意味に気づき、手を添え、違うかたちで関わり直せば ─また新しい流れが生まれるかもしれない。
温泉は、変わらずそこにある。でも、その意味や価値は、私たちの関わり方次第で変わる。
その多様な“つながり直し”のなかに、未来の可能性が潜んでいる。どのように関わるかによって、ぬくもりのかたちは変わっていく。
信仰、療養、観光、まちづくり ─温泉と人との関係には、さまざまな“つながり方”がある。正しさではなく、多様さを尊重すること。それが、この土地に流れる時間に寄り添うということではないだろうか。声を聞き、景色にふれ、時間をかけて関係を結び直す。その営みのなかに、静かに宿っているものがある。そこに、耳を澄ませること─。それは、地中深くで流れ続ける水のように、見えないけれど確かなぬくもりだ。
科学も、社会も、自然も。すべては、水のように、交わり、流れ、またつながっていく。そしてその流れの先には、まだ名もない未来が、静かにあたためられている。
鈴木 杏奈(すずき あんな)
宮城県出身。2009年東北大学工学部卒業、2014年に同学大学院環境科学研究科博士課程修了後、スタンフォード大学、東京大学でポスドク。2016年に東北大学流体科学研究所助教、2021年に准教授。2018年より地域共創プロジェクトWaku2 as life始動。専門は、地熱資源利用の設計。熱流体の移動現象だけでなく、地域共創に対する数理・情報科学的アプローチを模索。