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〔いのち)の可能性をみつめる

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ブックレビュー『手の倫理』

伊藤亜紗 著
講談社選書メチエ、2020年

本書では、「さわる」と「ふれる」という二つの言葉を手がかりに、著者自身の経験やケアの現場など、身体にまつわるさまざまなエピソードを横断しながら、手を介した「ふれる」という触覚的な行為が丁寧に紐解かれていく。本書を読み終えて最も印象に残ったのは、「手とは何か」という答えではなく、手というものを「どのように考えるか」という著者の思考の運びであった。結論へ急ぐのではなく、身体の経験を丁寧にたどりながら考え続けていく。その思考のあり方自体が、本書のいう「倫理」を体現しているように感じられた。

「さわる」は一方向的な働きかけであるのに対し、「ふれる」は互いの身体が関わり合う相互的な出来事であると著者は語る。さらに、「ふれる」とは、手を近づけた側ではなく、「どのようにふれるか」という接触のデザインに主導権を持つことだと述べる。一方、「ふれられる」とは、その主導権を相手に委ねることなのだという。

興味深いのは、本書がこうした議論を抽象的な概念から始めないことである。断片的な出来事や身体の経験を一つひとつ辿りながら、少しずつ思考を立ち上げていく。そして最後のあとがきで、著者自身の子どもの頃の「手」にまつわる記憶が語られる。その構成によって、本書は「手について論じた本」である以上に、「身体の記憶から考える本」として読者の前に立ち現れる。あとがきで著者自身の記憶が語られることで、本書は閉じるのではなく、読者一人ひとりの記憶へと開かれていくようだ。自身の身体的な記憶ではないが、拙者もまた、子供の頃の一つの光景を思い出した。

子どもの頃、母と買い物から帰る途中、自宅近くの横断歩道で視覚障害のある男性と出会った。母は介助を申し出て、兄と拙者は横断歩道を先に渡り、対面の歩道から母と男性の不思議な光景を目の当たりにした。

子どもながらに拙者が戸惑ったのは、二人の身体の配置だった。母は手をつないでその男性を先導するものだと思っていた。しかし実際には違った。母は腕を差し出し、男性はその上腕にそっと手を添えて歩いていた。その身体の配置が、子どもの自分にはどこか奇妙に映り、何十年経った今でもその場面だけは鮮明に覚えているのだ。

本書を読んで、その記憶の見え方が少し変わった。

拙者は長い間、母が視覚障害のある男性を「導いていた」のだと思っていた。しかし、本書の「ふれる」という考えに照らし合わせてみると、あの日の光景はもっと複雑だったように思える。母は腕を差し出していたが、その腕をどのように使うかを決めていたのは、男性の側だったのではないか。どこに触れるのか、どれほど身体を預けるのか、どのような歩幅で進むのか。母は自らの身体を相手に開き、その身体を通して相手が周囲を感じながら歩くことを受け入れていたのだと思う。

本書には、次のような一節がある。

「ふれる」とは、どのようにふれるか、この接触のデザインに関して主導権を持つということです。(中略)「ふれられる」とは、接触のデザインに関して、主導権を相手に渡すことです。(第3章「信頼」 ─「ふれられる」とは主導権を手渡すこと)

さらに著者は、ふれる側とふれられる側では、不確実性の質が異なるという。ふれる側は相手がどう反応するかわからないという不確実性を抱え、ふれられる側は相手がどのように触れてくるかわからないという不確実性を抱える。そして、その異なる二つの不確実性が出会うところに「信頼」が生まれるのだという。

この一節を読んだとき、拙者が子どもの頃に感じた違和感は、手を繋がずに二人が歩くという身体の配置ではなく、母が自分の身体を相手に委ねていたことへの戸惑いだったのではないかと思い至った。介助とは、一方が他方を支える行為だと理解していた。しかし、そこには支える側もまた、自分の身体を相手に委ねるという相互性があったのである。

本書の魅力は、「手とは何か」という定義を与えることにはない。むしろ、「ふれる」という、ごく日常的な行為を通して、人と人との関係や信頼、倫理について考え直す方法を示していることにある。

著者があとがきで自身の身体の記憶へと立ち返るように、本書は読者一人ひとりを、それぞれの身体の記憶へと送り返す。その意味で本書は、「手とは何か」を教える本ではなく、自分自身の身体の記憶をもう一度読み直すための本であるともいえるだろう。

Text アイハラケンジ
Photo 三浦晴子

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