
伊藤亜紗・愼 允翼
往復書簡(5)
伊藤亜紗(美学者・東京科学大学教授)
愼 允翼(東京科学大学研究員)
2026.10.23 Fri
手は、誰にとっても身近な存在でありながら、その経験のあり方は決して一様ではありません。触れること、動かすこと、感じること。私たちは日々「手」を使いながら生きていますが、その手をどのように経験しているのかを言葉にする機会は、案外少ないのかもしれません。
今回の特集「手」では、美学者・伊藤亜紗さん(東京科学大学教授)と、SMA(脊髄性筋萎縮症)とともに生きる研究者・愼 允翼(シン・ユニ)さん(東京科学大学研究員)による往復書簡をお届けします。
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第5回:伊藤 → 愼
愼 允翼 さま
先日隠岐諸島を訪れる機会がありました。後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流された、あの隠岐です。隠岐は島なのに水が出るので、米が作られているんですよね。流罪とはいえ天皇を無碍に扱うわけにもいかず、それで豊かなこの地が選ばれたようです。
島は結局山です。車に揺られ、その一番高いところ、一面の海がのぞめるところに連れていってもらいました。ちょうど夕暮れどきで、それはそれは美しい景色だったのですが、どうしようもなく寂しい気分になりました。ふだん、東京にいると「夕暮れ」という時間帯を意識することはほとんどありません。一日は基本的に「昼」か「夜」です。でも島は海に囲まれているために、夕暮れの時間帯が長いのです。いつまでもやってこない夜が、少しずつ少しずつ闇に呑まれていくような取り返しのつかなさを感じさせます。あの、お腹の底から寂しくなるような気持ち。子供のころは、毎日確かに感じていた気分かもしれません。
さて、お便りありがとうございます。ついに愼くんの身体に謎が発見されましたね!
愼くんの身体は、言語を介して介助者の身体を動かすことがデフォルトになっているがゆえに、形の定まらないもやもやや、主人のあずかり知らぬところで成長していく素性のわからぬ芽が、育ちにくい土壌なのだ、と。にもかかわらず、何を目的としているのか対象の定まらない微細な運動のうごめきが、秘密の時間にだけ訪れます。他者との身体的接触の経験値が半端なく高いだろう愼くんが、自分の身体を少しずつ解き放っているように私には見えます。さえさんの郵便(往復書簡(3)を参照)のことを語るときに、愼くんは「寿ぐ」という言葉を使いました。何年も何年もその人が抱え続け、場合によっては自分で自分を抑圧していたような部分を他者のもとでそっと解き放つという出来事は、この上なく色っぽく、そして寿ぐという言葉がふさわしい祝福に満ちているように思います。
以前、とある吃音のミュージシャンが、私がどもりながらしゃべっている声の音源に楽器の音をかさねて曲を作ってくれたことがあります。ライブで演奏してくれたこともありました。正直、直視するのが痛いような感じもあったのですが、同時に、自分の中に閉じ込められていた吃音が初めて他の人の手にわたり、その人によって再演されたことに、祝福としかいいようのない感覚を覚えました。その人は英語話者だったので、日本語でどもる私の音源は彼にとっては外国語だったのですが、私のしゃべるリズムや抑揚を完全に自分のものにしていて、いつくしむようにそれを演奏してくれました。音だけ聞くよりも、やはり生身の身体で演奏してもらうことが、「寿ぐ」には重要であるように感じます。
記号化を経ると「伝える」になりますが、謎のままだと身体はただ置かれるだけになりますね。この過剰な存在。それを誰かと分かち合えることはとても素敵なことだと思います。そして、この連載にとっては、祝福がどうやら「手放すこと」と結びついているらしいということは興味深い点です。いや、祝福されないと手放せないのかな?どうやらセットになっているらしいこの二つが同時に起こることが、私たちが魂だけの抽象的な存在ではなく、身体を伴う物理的な存在として生きていることの意味なのかな、とときどき考えたりします。
※「伊藤亜紗・愼 允翼 往復書簡(6)」は、11月18日公開予定です
2026/10/12
壊れかけのうるさい冷蔵庫のとなりで
伊藤亜紗
Illustration: ワタミユ
伊藤 亜紗(いとう あさ)
東京科学大学未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員(2019)。博士(文学)。その人固有の身体的経験や感性のはたらきなど、言葉にしにくいあいまいな領域について研究している。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)、『体の居場所をつくる』(朝日出版社)、『身体の美学入門 ――感性から捉えなおす人間の本質』(中公新書)など。第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞、第42回サントリー学芸賞、第19回日本学術振興会賞、第19回日本学士院学術奨励賞受賞。